-栄光の始まり-
旧制韮崎中学に初めてサッカーを導入したのは、初代校長の堀内文吉である。堀内は大正12年の就任早々、八ヶ岳おろしの吹きすさぶ荒れ地だった韮中グラウンドでもできるスポーツとしてサッカーを選択。サッカーは英国生まれの紳士のスポーツである。どんな気象条件にあっても実施するというサッカーは、厳しい自然と峡北人の不屈の気概という2つの特性にふさわしい競技と判断した。岩崎鋭市郎(たいいちろう)は、日本体操専門学校(現日体大)卒業後、昭和2年4月、堀内校長の招聘により体育教師として着任。その岩崎に堀内校長は校技としてサッカーの指導と育成を命じたのである。
■嵐と呼ばれた男
韮中のサッカーは岩崎とともに歩んだ。岩崎は剣道五段、水泳も得意だったが、サッカーは全くの素人であった。サッカーの参考書すらほとんどない時代、わずかな運動書類の中から佐々木等著「蹴球」を虎の巻にして指導。 練習は徹底したスパルタ教育で、技術のない岩崎は生徒と一緒に走り一緒に球を追う。生徒をはじめ周囲は岩崎を「嵐」と呼んだ。ニックネームの由来は、夏目漱石の「坊ちゃん」に登場する教師「山嵐」をもじったという説、身長175cm、体重80kgの当時としては堂々とした体格でグラウンドに仁王立ちし、怒声を浴びせ疾風のように突進する姿を表現したという説もあるがはっきりしない。
■合言葉は「けり込め」
サッカーはいまでこそ整然とした秩序を持つスポーツだが、発生起源をみても荒々しさがその底にある。特に当時は格闘技的色彩が強く試合も荒っぽいものだった。試合中の合言葉は「けり込め」。これを合図に全員が猪突猛進する。ただ走り、ひたすら蹴って得点する極めてラフで単純な競技ぶりだった。韮中蹴球部は岩崎着任前にすでにあったが、決して強くはなかった。昭和2年に着任した岩崎の熱血指導のもと、韮中蹴球部は厳しい練習に耐えて着々と力をつけ、常勝韮高サッカー部へと躍進。韮崎がサッカーの町として全国に知られていくのである。
-黄金時代の幕開け-
■栄光の昭和3年
昭和3年は韮中サッカー史上初の輝かしい年である。第2回県下ア式蹴球大会で優勝、山梨の覇者となった。この年、韮中蹴球部は前年の対戦成績全敗から全勝へとたった1年で華麗に変身。この急成長の裏には岩崎の指導はもちろん、学校をあげての応援があった。校内にサッカー熱があふれていたのである。
■県外へ羽ばたく
「県内に敵なし」といわれた韮中蹴球部だが、昭和5、6年は不運が続きなかなか勝てなかった。しかし、昭和6年には応援団も誕生、翌7年、松本高校主催の中等学校蹴球大会で長野、岐阜、新潟の各県代表をなぎ倒し優勝。その年の全国中等学校蹴球選手権関東予選でも準優勝した。県外でも大きく羽ばたいたのである。韮中サッカーの第一期黄金時代の到来であった。
■全国制覇への道
昭和9年に関東ナンバーワンとなった韮中蹴球部にとって、目指すは全国制覇への道である。初の全国大会出場は昭和10年4月、大阪の花園競技場で行われた全国中等学校招待大会であった。以後、「全国制覇」を合言葉に猛練習を重ね、翌11年に第18回全国中等学校蹴球選手権で決勝進出。
対戦相手は広島一中で下馬評はだんぜん韮中有利だったが、惜しくも敗れ準優勝に終わった。
-苦難の時代-
■伝統校の悲哀
昭和11年に全国中等学校蹴球選手権で準優勝した韮中蹴球部だったが、翌12年7月に山神静予選準決勝で湘南中にまさかの敗戦、本大会出場を逃した。どんなチームでも浮き沈みや波がある。練習に次ぐ練習を続けても結果が出ないこともある。卒業による選手の交代や全国制覇を望む世間の重圧など、伝統校ゆえの悲哀である。この年の同じ7月、廬溝橋で日中戦争の発端となる日中両軍衝突が起き、日本は戦争の時代に進んでいった。
■戦時色が濃くなる中で
昭和11年の廬溝橋事件に端を発した日中戦争は次第に拡大し、スポーツも否応なく巻き込まれた。15年に入ると戦時色はますます濃くなり、その世相と歩調を合わすかのように、韮中蹴球部はスランプ時代に落ち込んでいった。全国中等学校蹴球選手権は昭和16年から中止され、スポーツは銃剣道、射撃など国防競技が幅をきかせるようになった。しかし戦時体制に翻弄されつつも、「伝統の灯を消すな」と韮中蹴球部(当時は韮中蹴球班)はコツコツと練習を重ねていた。
■再スタート
昭和20年8月、日本はポツダム宣言を受諾し太平洋戦争は終わった。幸いにも韮崎は戦火を免れ、韮中も元のままであった。韮中が他校に先駆けてサッカーを復活できた要因である。戦後初の大会は昭和21年9月の第1回国民体育大会山梨予選会だった。復活したばかりの韮中蹴球部は、県予選会、中部地区予選会を勝ち抜き東日本代表決定戦へと進んだが湘南中に完敗、本大会への出場はならなかった。しかし、続いて浜松で開かれた近県中等学校蹴球大会では優勝し、復活1年目で幸先よいスタートを切ったといえる。
-黄金時代の復活-
■新制高校になって
昭和23年4月、学制改革により韮中も韮崎第一高等学校と改称。この年、全国中等学校蹴球選手権も全国高校蹴球選手権と改められた。韮崎一高蹴球部は県予選、中部地区予選に勝利して戦後初の全国大会出場を果たしたが、惜しくも準々決勝で敗退した。韮崎一高時代は2年間と短かったが、名選手を排出したことや戦績に派手さは欠けるものの実力が優れていたことなど、蹴球部にとっては大きな意味を持った時代である。昭和25年4月、韮崎一高は女子校の韮崎第二高等学校(旧制韮崎高等女学校)と統合し、韮崎高等学校となった。
■輝く「日本一」
昭和27年はサッカーの町・韮崎が黄金に輝いた年であった。韮高蹴球部は創立30周年にして、ついに念願の全国制覇を果たしたのである。第7回国民体育大会・決勝で大阪代表の明星高と引き分け2校とも優勝となった。待ちに待った「日本一」に韮崎は町全体が喜びに沸き返り、人々は凱旋した韮高イレブンを優勝パレードや歓迎会で熱狂的に祝った。翌28年にはテレビ放送が始まり、「蹴球」という言葉に替わって「サッカー」という言葉が市民権を得ようとしていた時代である。
■サッカー山梨
昭和28年度の新チームも連戦連勝の活躍を見せていたが、全国高校サッカー選手権に続き四国国体でも決勝で同じ広島の修道高に惜敗し涙を呑んだ。その後も好不調の波はあったにせよ、韮高サッカー部は昭和43年に山梨代表として第23回国民体育大会で優勝を飾り、50年には全国高校総体優勝、全国高校サッカー選手権では54年に準優勝、55年3位、56、57年準優勝、58年3位と黄金時代を築き上げた。高校サッカー界の名門チームとして「サッカー山梨」の名を全国にとどろかせる中心的な活躍をしてきたのである。